雨は三日も続いて
雨は三日も続いて、ようやく晴れあがった正午前にまた石垣の道に来ると、人にも見られず落花の残りが宙に舞い、石の間に浅く積もった土からとぼしい青草が萌えて、石の丸味の上に、ひとひらほどずつ、花びらが載っていた。供養のようだと眺めた。
雨は三日も続いて、ようやく晴れあがった正午前にまた石垣の道に来ると、人にも見られず落花の残りが宙に舞い、石の間に浅く積もった土からとぼしい青草が萌えて、石の丸味の上に、ひとひらほどずつ、花びらが載っていた。供養のようだと眺めた。
つまり<見る>ことが、肉眼に所与のものとしてだけ自覚されている間は、まだ<見る>ことの意味はそれほど明らかなものではなかった。
「朝のうちに書いておかないと、結局、何も書けなくなるんでね。詩だ」
「詩?あなた、詩を書くの?」
「うん」と彼は言った。プライドとあきらめががないまぜになったような言い方だった。
「うん、おれは詩を書くんだ」
「ふうん」としかあたしには言えなかった。それより陽の光から逃れたかった。
ナイトテーブルの上に青い陶器の電気スタンドがのっていた。その電気スタンドの下に、ソーサーにのせられたティーカップがひとつ置かれていた。カップのふちに赤い口紅がついており、ソーサーの上に紅茶が少しこぼれていた。
「ほんとは違ってる。あなたがアタシと思ってることは、ほんとは違ってる」
風が流れたすぐ後の小さな呟きが、とうに亡くなった母の声に似ていたので、立ち止まり、振り返っていた。
夕暮れを真っすぐにのびる道には、勤め帰りの人の姿もふいに絶えていた。ヴァイオリンソナタを聴いていたイヤフォンを外し、ポケットにしまってから、
「知っていたよ」と唇が動いた。
ときどきマッチをすりながら僕は夜明けを待った。疾風のような光とともに夜明けが訪れた。
写真はコードのないメッセージという位置である。この命題からすぐに重要な糸が引き出されるはずである。すなわち写真のメッセージは連続したメッセージである、という糸。
「僕は、思い出の働きについて考えることに、一生を費やしてしまうだろう」
出発点はここだ。なぜ時間を切り、思い出を繋ぎあわせるのか。彼は、別の惑星から来たのではない。未来からやってきたのだ。4001年、人間の脳が完璧に使用される時代から来たのだ。その時代には記憶も含めたわれわれが眠らされているすべての能力が、完全に機能している。その時、完全な記憶とは、麻酔をかけられた記憶のことだろう。記憶を失った人間の数々の物語のあとに、忘却を失った人間の物語が始まるのだ。
市街電車の音や絨毯を叩く音の拍子が、私を揺すり、眠りを誘った。その拍子に包まれて、私の夢は結ばれたのだった。初めのうちは、まだかたちをなしていない夢、おそらくは、産湯の波のような感じやミルクの匂いが浸透していた夢。それから長く紡ぎ出されていった夢、旅や雨の夢。
私にとっては人生で初めてのいいキスだった。彼女の唇はチョコレートの味がし、キスしおえると、彼女はショートパンツの尻のポケットからたたんだキャンディ・バーの包み紙を取り出して、私に手渡した。開くと中に彼女の名前と電話番号が書いてあった。その横に豚の顔が描かれていて、漫画のように口から吹き出しが出て、”わたしのことを忘れないで!”と書かれていた。
ぼくの見る悪夢は厳密で、幾何学的だ。簡略にして、恐ろしくしつこい内容と決まっている。例えば、渦巻きに巻き込まれて、その中心まで運び去られる夢とか、目の前に何本か直線があって、一つの線分を他の線分と置き換えたり、絶え間なく修正を加えて悪い部分を消したりしながら、全体の構造を変える為ために際限なく努力を重ねる夢とかだ。ここ数日、ダーツばかりやっているせいで、夜のあいだも、眠りに表面に、的のイメージが執拗に浮かんでくるのである。
かつて、わたしは、ポツダムでリスボンを思い出していた・・・・・
・・・そしてリスボンで、わたしが子供だった頃のドイツを思い出していた。
モノとレンズ、外見と技術、光の物質的性質とカメラの形而上学的複雑さ、これらの間にある沈黙の共犯関係を、意味やヴィジョンを介入させることなく、自由勝手に遊ばせること。なぜなら、モノのほうこそがわたしたちを見つめ、わたしたちを夢見ているのだから。世界がわたしたちのことを反映し、世界がわたしたちのことを考える。これが根本原則だ。
高浦が殺されたのは、そんな辻ではなかった。殺されたのでもない。夜更けの道で通行人に言いがかりをつける若い者をたしなめたところが取り囲まれた。四人いた。掴みかかって来たのを一人は肩透かしにして一人は足払いをかけた。そこまではごく冷静に見えた。気おくれした連中に取りなしの言葉をかけて去ろうとした。ところが、それで安心したのか、重立った一人が及び腰から、卑しい悪態をついたそのとたんに、高年の同行者の話したところによると、高浦は忿怒の形相になり、逃げる機をなくした相手の前にゆっくりと近づき、手の出る前に、崩れ落ちた。
映画は、記号とイマージュのアレンジメントです(サイレント映画でさえも、やはり言表行為の様々なタイプを含んでいる)。私が映画について試みているのは、映像と記号の分類の作業です。例えば、運動イマージュがまずあり、これが知覚イマージュ、情動イマージュ、行動イマージュに分けられます。もちろんもっと他のタイプのイマージュもあるでしょう。それぞれのタイプに、様々な記号、声、言表行為の形態が対応するのです。こうして巨大な分類表が必要になります。様々な巨匠たちが、それぞれ独自の傾向をもってこれに参加しています。
音は消える。ちょうど印度の砂絵のように。風が跡形もなく痕跡を消し去る。だが、その不可視の痕跡は、何も無かった前と同じではない。音もそうだ。聴かれ、発音され、そして消える。しかし消えることで、音は、より確かな実在として、再び、聴き出されるのだ。
現在ほど、詩ーフォームと言っても良いーが大事にされなければならない時代はないだろうと思う。新しいことばが次々に生まれている。だが、輪郭の定かでないことばが氾濫しているに過ぎない。日常人間が使っていることばは、細胞が分裂するように分裂して、ことばのもつ全的な機能を果たせなくなっている。
眼鏡を額にずりあげ、服も顔も煤で真っ黒になった機関士と運転手が、釜焚きデッキの手すりに肘をついて、縁の赤くなった目で、目の下の男女のぼんやりとしたうごめきが横に滑ってゆくのを眺めていたが、ながい軋み音をたてて列車のつらなりが動かなくなると、それも動かなくなり、どの顔も彼らを見上げ、時に子供を腕に抱いたりして、列車が停止してだいぶたってからも、いつもの突進とちがって、一種の疑いぶかい茫然自失、疑いぶかい狼狽といった表情で、客車の茶色っぽい脇腹を凝視しつづけていた。
僕の発想法は基本的にはやっぱり断片的。それで、その断片をどう並べるか。ヌーヴェル・ヴァーグのモンタージュは、断片断片の素材で撮っていって、編集でつくるわけだけど、あれに近いと思う。モンタージュする時に、既成の起承転結的な音楽パターンにすることも出来るし、きれいに並べないで、わりと素材のままダラッと放置することも出来るし。
透谷について書きだしてから、なぜかわたしは心という言葉をしばし使うようになってきた。「心宮内の秘宮」の「心宮」のもつ影像の魅力であろうか、心という言葉を使うたびに、「こころ」ではなく真珠のようにひかる「心宮」を想いうかべる。透谷を読む以前といまとでは、心とう言葉の姿がまったく変わってきているのに気づく。
風はいよいよ吹き荒れ、雨もそれにあおられて舞うせいか、まっすぐ落ちてこないで、ざっ、ざっ、ざっ、と如雨露で水をまいたように塊となって窓を打ちつける。木々の梢に切り裂かれた風の音が彼の耳のなかでかすれたひとの声に変化する。命の芯、とその声は告げているようだった。おまえに、命の芯を受け止める力があるのか、と。
鹿の肉を喰っていた。持て余した肉の大きさに、ナイフとフォークをじわじわと動かして、金属の先端が皿にあたる細く澄んだ音へ、耳を澄ますようにしていた。音と音との間が、時雨の走って過ぎる間ほどの、長さに感じられた。人の話に受け答えをするには、時雨の中と同様に、何のさしさわりもない。声はかえって通った。
母屋の座敷で寝ていて、早朝、だれかが縁側で包丁を研いでいる、と思った。欅の枝葉の繁りを梳いて、庭へきびしい晩夏の光が射し込んでいる朝だった。とても近い音なのに、見渡してもだれもいない。音のするほうへ下駄をつっかけて出ると、すぐそばの梅の木の、根方にそよぐ草叢から発していた。
目を凝らして草のあいだを覗いてみたら、前肢にミンミンゼミをがっしりと捕らえたまま、翅を収めきっていないオオカマキリがふり返った。
目をつぶると、私の前にひろがるのは戦前の東京だ。市電が走っている。伝染にポールがふれてスパークし、ぱちぱちと青白い火花が散っている。また目をつぶる。すると今度は戦後の東京だ。見わたす限り焼け野原で、銀座から浅草の松屋が見える。浮浪児とパンパンが街を行く。また目をつぶる。すると今度は現在の東京だ。まぼろしのように高層ビルが立っている。
肉体の一点から詩が入ってきて、私は誕生した。色は真紅とでもいっておこう。獣眼が覗きこむ修羅。私は通行されるものである。産道から歩きだして、全く途方もない宇宙の駅に立ったものだ。
太陽は赤道植物園に堕落した。「白人の裸体」という種族が住んでいる、獣眼のもっとも淀んだ場所で、産婆が洗面器を洗っていた。
逆流する橋幸夫のメロディー
青い蒙古斑のあたりをけっとばされて
まぶたをこすりながら
おれは立ちいでた
はりついた血液がとけて頭蓋に灯がともるころ
かすかに見えた
のたうつ日本列島の背骨
正倉院の御物が下半身を腐らせにらみつけている
むき出しの魂が抒情の河原で昼寝をしている
プラットフォームには、発車までまだ随分時間があるのに、列車を待つ人が、日陰を避け陽射しの側に幾組か立っていた。風は冷たいが、晴れ渡って紫の膨らみ始めた季節の色の層を通して、山々の残雪が淡く正面に広く眺められた。小旅行の格好の夫婦の向こうに見え隠れする女性たちの弾ける笑い声が真上へ抜けると、潮が引いた後のような腐食の色彩のレールと砂利が、真下へ向かって静まりかえった。座布団を脇に抱えた交代の運転手が列車点検のほうからゆっくりとこちらへ歩いてくる。
簡単に忘れてしまうと思っていました。忘れる努力もしました。でも、時間が過ぎれば過ぎるほど、抹香のような黒い結晶がカラダの中につくられていくのですね。これは、あの忌まわしい一瞬よりも始末が悪い。日を過ごす度に取り返しのつかないカラダになっていく。
午後の陽射しの下の、柔らかい街の景色を微睡んで眺めることもできない。
秘密など持つものではありませんね。
Reality is complex. The standard sensibilities of our times are such imperfect tools for appreciating reality that the process of combining them soon degenerates into an end in itself. What should be simple and clear balloons into the complicated and impenetrable, the victim of worrisome, pitiable passion. I smile ruefully at my simplistic longing to react frankly to events as I randomly straighten up my studio.
Art does not belong to the artist. A work can be an obscene gesture, a painfully earnest attempt to communicate, a confession, or a combination of all three. Once it starts to merge with its surroundings, the artist loses control, and metamorphosis begins. A true artist aspires to greatness, yet does not give a damn. Individual attitudes and the structure of the system are not issues. Ideas springing from the gap between the two are.
Passing through this world straightforwardly filling every minute of existence with deep cognition and self-reference is not my thing. I would rather cut through at an angle-though not necessarily accelerated to meteor-like swiftness. I would rather take my time meandering through the interstices of time and space,gazing about, making mistakes, and keeping dissociated. My path should be one of contradiction and beauty, the distillation of my entire existence.
Shifting my gaze from the heavens to the Earth, I feel the weight of time written in the seemingly random structure of the soil and mineral layers beneath it. Many times I have driven out to read the movements of the earth's crust from such exposed layer and used the impressions that flood in as my conceptual guidelines. In my studio, I illuminate the samples that I have brought back with me so that light reflrects off them to fill the room with the stories that they have to tell. I back in their rays as they speak to me.
アマチュアとは文字通り「愛する者」のことである。ある対象に対する「情熱」がもっとも重要な知の源泉であることについて、社会のなかで基本的な合意が成立している。「明るい部屋」をそのようなアマチュアリズムの最良の成果のひとつとして読むとき、偏狭な専門主義のなかで窒息しかかっている想像力に、新鮮な空気が送り込まれる。そしてバルトのこの姿勢は、「アマチュア」が本質的な部分を構成している写真というメディアの特殊性とも深いところで関係している。
彼は彼女のキャットスーツのファスナーをおろした。
彼女の肌は美しく、シナモン・スティックのような色をしており、彼の唇が触れると赤みが注した。
朝、詩を書く男。素敵と云えば素敵だ。
誉めてあげたいようなところもある。でも、同時になんだかこっちが恥ずかしくなるようなところもある。
水辺に佇み、それを打目守っていたピュエルは、この時ゆくりなくも前へと進み始めた。
水の面に映じた許多の滴石が砕けて、鬱金の破片が野火のように氾がっていった。洞内は、その波紋の翳に揺れている。水は低く、纔かに膝の上までを濡らしただけである。
静謐の底で、私は遠ざかって行く光を目守っていた。
背から、冷気が流れて来た。
頭上では、宆蓋を掻くような禽の音が、跡切れ々々に鳴り響いている。
夜は、重く、生温い、獣のような寝息を吐いていた。
記憶の匂いは何処?
石底ノ虫の、棲家?
記憶のなかで甘い石々。
船食虫達の着物のひかり。橋の下はいびつな建物だから、橋下にいて、草叢に尻をつけ石っころは夏の想像にふける。
電車が止まっている。保線区員はこない。
Comme les pleurs muets des choses disparues,
Comme les pleurs tombant de l'oeil ferme des morts,
Dans le deuil, dans le noir et le vide des rues!
「してみると、きみはリアリズムは謂わば倍率一倍で、
外部の実現が内部の現実と接続するとき、これをリアリズムという。
と考えようとしているんだな。それにしても、倍率一倍の望遠鏡がつくられるまで、どうして七十年もかかったのだろう」
ちょうど、そこに台に取り付けた望遠鏡が出してある。すこし暗くなったが、出てみよう。
望遠鏡は、これによって内部をなすところの領域の中に、外部をなすところの領域を実現し、この内部をなす現実が、まさに内部であることを証明しようとするものである。
山羊が屠殺人を見つめるのは、屠殺人を殺す希望を抱いてのことである。
ー「イボ族の諺」
未来の音楽が単旋律になったとしても私は驚かないだろう。それともこれは単に、複数の旋律をはっきりと思い描くことが私にはできないからなのか?いずれにしても古い偉大な諸形式(弦楽四重奏曲、交響曲、オラトリオ、など)が何らかの役割を果たしうるだろうとは私には考えられない。何かがやってくるのなら、それはー私が信じるにー単純でなければならない。透明でなければならない。
ある意味で、裸でなければならないのだ。
「脂肪の塊」というモーパッサンの作品は、1870年から71年にかけてフランスを舞台として起こった普仏戦争の時代の話です。プロシャ軍がフランスを占領しているという状況を、溝口健二の「マリヤのお雪」では、西南戦役の政府軍(官軍)と薩摩軍の話に置き換えております。すると、オリジナルとそのコピーという関係にありながら、まるで西南戦役にぴったりの題材だと思えてしまいます。
横顔が髪に隠れて、白い顎の先だけが見えた。
口元に添えている指先が、やや外側に反っていて、モノを掴むような触手ではないが奇麗な形だと思った。
丸い小さな爪に、淡い夕暮れの光をぼんやり集め、蛍のように滲んだ。
見つめたふたつを脳裏に残すようにして、ハンドルを握り、ギアをRに入れ、クラッチを離しながら、砂浜から車を遠ざけた。
帰り道は雨となり、寝息が聴こえたので、助手席には一度も眼差しを投げなかった。
カーラジオからSealのDon't Cryが流れていた。
僕たちは9ヶ月一緒にいて、そのあとはもう一緒ではなくなった。
斜線を引く。
斜線を引く。
斜線を引く。
斜線を引くという行為について考える。
遠い。
遮断機があがる。